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白頭殼仔-洪元煌(1883-1958)的人生組曲:殖民統治與草屯洪家

白頭殼仔-洪元煌(1883-1958)的人生組曲:殖民統治與草屯洪家

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內容簡介

  洪元煌1883年出生於清末的北投堡(今草屯),為北投堡總理洪玉麟的五男。日治初期畢業於草鞋墩公學校(今草屯國小),1919年與林獻堂等人加入東京新民會,歷經臺灣文化協會、臺灣民眾黨、臺灣地方自治聯盟和東亞共榮會等,1924年更創設草屯炎峰青年會,成為日治時期最具戰鬥力的自發性地方青年團體。 
 
  洪元煌的摯友兼盟友葉榮鐘,戰後曾經想寫洪元煌,可惜終未完稿。
 
  綜觀洪元煌的一生,其權宜變通的務實性格與無役不與的政治實踐,彷如介於林獻堂、蔣渭水和賴和三者之間。他有著林獻堂的派頭,卻又不如林獻堂優雅;他有著蔣渭水的社會實踐精神,卻又不如蔣渭水激進;他有著賴和的尖銳筆鋒,卻又不如賴和新潮。
 
  二次戰後,加入櫟社,二二八事件期間遭難獲救,歷任草屯鎮長和國民大會代表,1958年病逝。
 
  本書透過921震後出土「日治時期草屯洪氏家族文書」,探究白頭殼仔洪元煌傳奇的一生,實見證了攸關臺灣命運的兩個戰後史。
 

作者介紹

作者簡介
 
陳文松
 
  現任職國立成功大學歷史系教授兼系主任。1969年,出生於南投名間。曾就讀私立世界新專編輯採訪科五專部、國立臺灣大學歷史系,日本東京大學總合文化研究科地域文化研究專攻博士。2008年7月起先後任職國立花蓮教育大學鄉土文化學系、東華大學歷史系,2010年2月服務現職迄今。著有《殖民統治與「青年」:臺灣總督府的「青年」教化政策》(臺大出版中心,2015年)、《來去府城透透氣:1930-1960年代文青醫生吳新榮的日常娛樂三部曲》(蔚藍文化,2019年),以及臺灣圍棋、麻雀(麻將)等研究。
 

目錄

推薦序/若林正丈
推薦序/若林正丈;陳文松譯
推薦序/李文良
 
序曲
前奏 草屯社會與「四大姓」
 
獨奏
一、1896 年「乙卯日之戮」
二、洪玉麟與南投街守備隊
三、地方行政的開展
 
二重奏
四、書房教育的「鹿港雙樵」
五、青年洪元煌與碧山吟社
 
三重奏
六、1924 年創設炎峰青年會
七、籲建立全民政黨
八、拼「庄政」爭自治
 
四重奏
九、以詩代劍的雪峰
十、擘劃農倉的洪火煉
十一、1945 年戰後境遇大不同
 
曲終
參考文獻
後記
 

推薦序
 
若林正丈
 
  陳文松教授の新著《白頭殼仔 洪元煌(1883-1958)的人生組曲》を読者に一歩先んじて一読する機会を得た。「後記」に依れば、本書は、教授の前作『殖民統治與「青年」:臺灣總督府的「青年」教化政策』(臺大出版中心、2015年)の姉妹作であり、この前作を前提とした洪元煌の伝記である。前作を前提としている、というのは、主人公の洪元煌が、台湾総督府の教化政策がその意図(「帝国の青年」あるいは「植民地の青年」の培養)に反して生み出した「台湾青年」の一典型であるからである。著者は、その一典型としての洪元煌の生涯を、台湾近代史一般の中に置くのでは無く、彼が活躍したその故郷草屯地域の地域史の中において描いている。著者の焦点は洪元煌と草屯に合わせられているから、本書は洪元煌の生涯を通じて描いた草屯地域の地域史であるとも言える。そのことがまた本書を独特の台湾近代史の書たらしめている。
 
  これが、私が見るところの本書の中心的意義であるが、本書の校正刷りを読み進む中で、わたしは陳教授が描く二つの場面に強い印象をうけた。そのことを記したい。
 
  一つは洪元煌の父洪玉麟の経験である。1896 年 4 月初め、洪玉麟は草屯の隣の南投に進駐してきていた日本陸軍からの呼び出し状を受け取った。文面は「我有所諮詢要即刻来南投街」の一行のみ、日付は「明治二十九年四月四日」、差出人は「南投街守備隊 長内中尉」であった。著者は本書 78 頁にその原史料を写真版で掲出している。
 
  清朝期の武秀才で北投堡の総理を務め、日本軍が進駐してからも在地人の側から地域の秩序の一角を担っていた洪玉麟にとって、侵入してきた日本の権力との直接接触はこれが始めてではなかったはずではあるが、単刀直入かつ有無を言わせぬ短い出頭命令の文言と著者が提示する原史料の印影とは、この時この地に侵入してきた日本という外挿国家の権力の切っ先の存在をまざまざと感じさせる。呼び出される老境に達した武秀才の緊張と不安はいかばかりであったか。抗日ゲリラ鎮圧がままならぬ若き日本帝国軍人の焦燥もまた激しいものであったろう。そしてその腰に下げたサーベルが所作とともに立てる音まで聞こえて来そうである。
 
  武秀才の不安、帝国軍人の焦燥は悪しき方向で現実となった。二ヶ月も経たないうちに、抵抗するゲリラ鎮圧に焦った日本軍は南投地区に隣接する雲林で虐殺事件(雲林事件)を起こし(6 月 16-22 日)、さらには南投地域でも7月1日に「乙卯日之戮」と称される40-50 名規模の虐殺事件を起こし、さらにこれに反発する日本軍への攻撃をも惹起した。著者は「草屯洪氏家族文書」を使って、以後こうした地域住民の不安・緊張・反感の中で日本当局への協力を迫られる老齢の武秀才の姿を浮かびあがらせている。
 
  本書の主人公洪元煌は、洪玉麟の五男、この時すでに13 歳になっていた。後の草屯の「台湾青年」のリーダーは、このような父の後ろ姿を見ながら青年期を迎えていったのであった。
 
  印象深い場面の二つ目は、日本植民地支配から離脱し中華民国統治下にはって2 年目、かつての「台湾青年」洪元煌自身が新たな支配者と地元草屯で交差する一場面である。1946 年 10 月 24 日、「光復」後初めて夫人宋美齢とともに台湾を訪れた蒋介石は、日月潭の帰途に草屯鎮公所に立ち寄った。時に洪元煌は「光復」後 2 代目の草屯鎮長の地位にあって当日蒋介石夫婦を出迎えた。戦後編纂された、《草屯鎮誌》にはそれを記念する碑の碑文が引用されており、著者はそこに記された洪元煌の詩文に注意を喚起する。洪元煌は抗日運動家であるとともに詩作に思いを託した漢詩人でもあった。
 
  詩の全文は本文に引用されているが、著者が注目するのは、「江山黯淡倏光明」の一行である(本書 300 頁)。日本の支配から解放されて喜びも束の間、新たな中華民国政府の統治下で台湾の社会状態は暗転しつつあった。「倏光明」その中で時の中華民国最高指導者に地域の状況の改善の期待を託す気分を表している。しかし、詩句に表された期待と不安では、不安のほうが的中し、蒋介石への期待は空しいものとなった。その四ヶ月後に二・二八事件は勃発し、すでに老境を迎えていた洪元煌も事件後には一時投獄を経験した。以後、台湾では1980 年代末まで蒋介石・蒋経国父子の支配が続いた。
 
  筆者には、半世紀を隔てた父と子の、相似の歴史的タイミングの、外挿国家との遭遇の相似の経験は、台湾近代史のあり方を深く象徴するような気がしてならない。陳教授は、地域史の視点にこだわり、またその地域の「台湾青年」の行動の軌跡を追跡することによって、一書の中にこの二つの場面を提示し得た。これらの場面があるからこそ、「帝国の青年」から「台湾青年」を自己創出した洪元煌らの「無形的成功」の追求の半世紀を振り返る意義があるのだと言えよう。
 
  著者は本書の末尾に、草屯鎮には今も洪元煌らかつての「台湾青年」達が活動拠点としていた炎峰青年会館を偲ばせる、炎峰街、館前巷、青年巷という地名が残っていると記している。何時の日かわたしもこれらの地点に佇んで、洪玉麟・洪元煌父子が歩んだ地域の、台湾の歴史の積み重なり、つまりは「台湾という来歴」の来し方を感得したいものである。
 
若林正丈
2021 年 10 月、日本、相模原市の寓居にて
 
推薦序
 
李文良
 
  真是待望已久!摯友文松有關南投草屯洪家在日本時代參與政治文化運動的論文,終於彙整改寫成書,即將出版面世。實在非常榮幸!能有機會受邀寫序,先睹為快,滿足前此長久的等待。
 
  我會特別注意到文松的草屯研究,一開始並非源自於日治時期政治運動史的興趣,而是在我轉往清代社會史研究之後。我很快注意到了,島內幾條源自中央山脈的河川,在剛進入平原及其後抵達海岸之處,往往成為重要城鎮,有著活潑的人群、商貿往來,常是重大動亂、制度習慣的起源地。中臺灣的烏溪(大肚溪),則是其中的觀察重點之一。雖然不管從臺南或臺北看來,位於南投谷地、舊稱草鞋墩的草屯,肯定是相當偏遠。但草屯有茄荖溪往北匯入烏溪的重要支流貓羅溪,這裡是深入山區的橋頭堡,也是從廣大嘉南平原進出臺中盆地、海岸平原的孔道。位居山腳下的草屯,可以利用地形高低落差,修築水利系統,農業生產豐富而穩定、土地價格騰高。毫無疑問,草屯從 18 世紀起就有著活潑的商貿活動、產業經濟,並在此基礎上孕育了地方的政治文化事業。19 世紀中葉,草屯出現了洪、李、林、簡等四大姓組成的「四大姓局」,意味著宗族的蓬勃發展及社會整合。
 
  文松有關草屯洪家的研究,吸引我注意及學習之處就在於,他將日本時代的政治文化史,從臺灣總督府下行到鄉鎮層級的地域社會,並正視草屯豐厚的地方政治文化傳統。他深度運用「洪玉麟家族文書」、「草屯行政文書」等地方文獻,細膩地重現四大姓之首的洪姓家庭之主要成員的人生經歷,生動描繪地域社會內部複雜的人際、利益競合關係,生動地展示了他們曾經歷的大時代及政治文化變遷。專書首先登場的是主角的父親洪玉麟,他在 1895 年日軍前來接收之際,是北投堡的「總理」,這是晚清最重要的地方鄉職。文松經由翔實的檔案運用,讓我們同時了解傳統地方領袖與新政權的巧妙折衝,以及殖民統治貫穿到社會的歷史過程。1883 年出生的主角洪元煌身兼傳統與近代教育,他在地方書院受教、準備科考,度過清朝統治最後的 12 年;隨後又進入新政權的近代學校,接受初等的公學校教育。這個「雙重語言讀寫能力」讓洪元煌可以使用漢文和舊時代的鄉紳交流,也得以嫻熟的日語參與近代政治文化運動。雖然如此,洪元煌的根基無疑還是洪氏家族長期在草屯累積起來的政經基礎,日夜關懷的則是他成長的鄉土。他的社團組織起點是炎峰青年會,其入會資格限於草屯庄民,主要成員為草屯四大姓的年輕世代,創會目標則是推動草屯的政治教育與文化啟蒙。儘管洪元煌也曾前進州治、島都甚至是帝都,試圖尋求更高的政治舞臺,但他最終能夠具體實踐理念的操作場域其實是草屯的「庄政」。
 
  閱讀文松這本將政治文化人返回地域社會、有著生動表情的精彩專書,我總是想著:就草屯這個高度有趣且有豐富文獻之地,文松未來或可將研究從日治往清代回溯,而我自己則是從清代下行到日治時期。就像他畢業自臺大歷史系,如今是成大系主任,而我是成大畢業卻在臺大歷史系擔任主任一樣。等到我們各自將草屯各時代的歷史都研究過一遍之後,有機會再來交換意見,共同寫一本新書。
 
臺灣大學歷史學系
李文良
 

詳細資料

  • ISBN:9789865635657
  • 規格:平裝 / 369頁 / 15 x 21 x 1.84 cm / 普通級 / 單色印刷 / 初版
  • 出版地:台灣
 

內容連載

一、誰是洪元煌?
 
洪元煌,一個在臺灣近代史上幾乎被遺忘的名字,但是他卻有著傳奇性的一生;他是臺灣近代史上的一個傳奇性人物,而本書就是要敘述他這傳奇的一生。不過要如何讓他出場呢?其實是一件頗費思量的事,他總是以一種很容易被讀者所忽略的歷史性記述存在,因為,儘管他從未缺席任何一個臺灣近代史上的重大事件,但常常因為主角的鋒芒太盛而始終被研究者所忽視;然而細究其一生,他的性格不僅鮮明,且無役不與,「鋒芒畢露」,包括在1921年(日本大正10年)臺灣文化協會的創立總會,代理林獻堂主持開會儀式和致詞。而今(2021)年,正巧適逢文協創立百週年的重要日子,白頭殼仔洪元煌的歷史定位也應被重新檢視。
 
洪元煌出生於1883年清末的北投堡,為當時北投堡總理洪玉麟的五男。1902年畢業自南投廳草鞋墩公學校(草屯公學校的前身)後,1919年前往東京遊學。遊學期間與林獻堂等人加入東京新民會,其後歷經臺灣文化協會、臺灣民眾黨、臺灣地方自治聯盟,以及東亞共榮協會等臺灣文化、社會、政治運動團體,幾乎無役不與。由於這項豐富的經歷,曾被同鄉後輩張深切稱為「職業的社會運動家」;另一方面,1924年洪元煌在草屯當地創設炎峰青年會,成為後來立基草屯、前進全臺的政治運動青年團體,故亦被稱為「草屯青年的領導者」。二次大戰結束,在中華民國退守臺灣實施地方自治和行憲後,歷任草屯鎮長和國民大會代表等職,1958年病逝,享壽76歲。
 
由於張深切與洪元煌都是草屯人,且有共事的經驗,因此,爲了讓讀者對洪元煌有更深刻的印象,以下引用張深切的二則回憶;同時,引用一則1928年《臺灣日日新報》專欄中針對洪元煌的短評,一窺當時官方媒體如何看待洪元煌。如此,相信有助於讀者們理解本書後續的解析。
 
首先是張深切的兩則不同時期,與洪元煌交往的回憶。
 
我(按:1924年暑期自上海)回草屯老家,常和地方的青年來往,組織了一個團體(按:1925年7月組成草屯炎峰青年會演劇團),研究演劇,得了前輩洪元煌、李春哮、洪錦水、林金釵等人參加支持,成為一個業餘的劇團。(中略)

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